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漢方医学の考え方



大塚 敬節   北里研究所附属東洋医学総合研究所/所長

私たち生きた人間にとって,一番大切なものは何であるかといいますと,日で見ることもできないし,耳で聞くこともできないものが一番大切であります。ということは,それは私たちの体の外では空気であり,私たちの体の中にあっては命であります。 この空気も命も,見ることもできなければ聞くこともできないというものであります。 この見ることもできない,聞くこともできないものを漢方医学では「気」と呼んでおります。この「気」は宇宙間に瀬漫している大気も,人間の元気も同じものであるというのが,われわれの先輩の考え方でありまして,人間の元気も大気もみな一つであるという考えから,漢方医学の考え方が発達してくるわけでありまして,漢方医学の一番古い古典である『素間』(前漢時代にできあがったもの)という本の中には「病は気に生ず」といぅ言葉があります。ところがこの気に陰の気と,陽の気があって, 陰陽の気の不調和が病気であるというょぅなことをいっております。この不調和を調和することが治療でありまして,この不調和がどのような状態になっているかを見るのが診断であります。これが漢方の一つの考え方であります。

漢方における”気”

戦国時代の末に,『呂氏春秋』という書物ができました。この書物では,陰の気と陽の気とが結びつくことによって命が生まれる,陽の気と陰の気がバラバラに分かれてしまうことが死である,陰陽の気の不調和が病気であるというょぅに説明しております。1659~ 1733年まで生きておられた後藤艮山という徳川時代の漢方の大家がありまして,この人は一気留滞説ということを唱えました。一気留滞説というのは,すべての病気は,気の不めぐりが原因である,気のめぐりが悪くなることが病気の原因で ある。したがって,病気を治すには,気のめぐりをよくすることが一番大事であるというように主張したのであります。したがって,.彼は特別に順気剤という処方をつくって用い,それから温泉療法とか鍼灸療法はすべて,気のめぐりをよくする効があるから効くのだとしてこれを推奨し,そして病気の治療には看護が大切であり,また飲食物が大切であって,その食べ物の指導をするなどこまかく気を配ったことが,艮山の説を門人たちが筆記した『師説筆記』という書物の中に出てきます。この艮山の系統には山脇東洋とか,永富独嘯庵か,亀井南溟などの名医が続きました。 この艮山より遅れて吉益東洞という古方の大家が出ましたが,この東洞は,目に見えないものは一切相手にしない,目に見ることのできないものは医の対象にならないということを唱えたのであります。この時代にこういうことをいったということは,まずすばらしいことで,見方によっては非常な卓見であり,要するに今日の医学と同じように,実証できないものを否定したわけであります。したがって,目で見ることのできない「気」というものを否定しまして,陰陽の気は医者には用のないものである,人の命も目で見ることができないので,医者の関係することではなくて,天の司るところであり,天命であるということを唱えたのであります。この天命説は,東洞が誤って病人を殺した時の逃げ口に,逃げ道として作ったものであって,けしからぬことであるといって,当時の医界からは激しい攻撃にあいました。これに対して東洞は,人事を尽くして天命を待つの意であるというふうに抗弁しておりますが,艮山の曽孫弟子にあたる亀井南溟は,「天命は知らぬというが,命尽きて病治りてきつい迷惑」という歌を作って東洞をからかっております。東洞の説を掲載した『医断』という書物が発行されまして2~ 3年経ったのちに山県大弐が『医事撥乱』というすばらしい名著を書きあげたのであります。この山県大弐は,後藤良山の系統の医者でありまして,これは勤王の士として有名で,医者であることが忘れられておりますが,医者としても非常な見識を持っておりまして,当時の医学界の乱れを正すために書いたのが,この『医事撥乱』という書物であります。大弐が死刑になった時に,こんな本を持っていると自分にも累が及ぶであろうというのでみな焼き払ったりして,ほとんどこの本が姿を消してしまったのであります。私は偶然これを二つほど手に入れまして読んだところ,この本の冒頭のところで,吉益東洞の陰陽無用論を批判して,医者は見ることのできないものを見なければならない,病気というものは見ることのできないものである,その見ることのできないものを見るのが医者のつとめでぁる,したがって見ることのできないものを見る手段に,陰陽という言葉を借りて論を立ててあるのであって,陰陽の必要なことは十分認めなければならないとして,考証をしております。東洞は,漢方で一番大切な陰陽の気を目に見えないとして否定したばかりでなく,この医学の『神農本草経』以降の,薬の効能を書いた本草書の説も全部否定しまして,漢方の伝統の大部分を否定してしまいます。そして彼は,『傷寒論』の古にかえるということを旗印としておりましたが,傷寒論の中でも,自分の識見に合わないものは,みな作りかえまして東洞独自の医学を樹立したのであります。この東洞の医学は現在の西洋医学にもっとも近い考えの上に立っておりますので,富士川游とか呉秀三というような医史学をやった医者は,徳川時代の漢方医界の第一人者として推奨しているのであります。ところで東洞の長男の吉益南涯を初め,多くの門人の中に,目に見えぬものはいわないという東洞の説を継承したものはだれ一人としていなかったのであります。東洞の医学は東洞一代で終わりまして,東洞の説を継承する人はなく,南涯は『気血水薬徴』という書物を書きまして,気の重要性を取りあげているのであります。このことは,東洞が,今の言葉でいいますと,漢方を学として体系づけようとしたけれども,そこには非常に無理があったために,やはり漢方は術でなければならないとして,門人や跡とりの息子たちも,やはり父の跡,師匠の跡を継ぐことはできなかったのであります。術としての伝統を否定するときは,漢方そのものを否定するということになるから,非常な非難があちこちであったわけであります。とくに亀井南溟は,漢方はあくまで術でならなければならないと考えまして,医の妙所は手にもとれず絵にも画けないものだといい,「方を読むこと3年,天下治せざるの病なく,方を用いること3年,用ゆべき方なし」という唐代の孫思邈の言葉を引用しまして,学問や知識だけでは何の役にも立たない,将棋をさしたことのない人の書いた将棋のさし方という本は,いくらうまく書いてあっても役に立たないということをいっております

術としての伝統

三国時代の魏の国の将軍に張奢という非常な名将がおりまして,戦には一度も負けたことがないという人です。その息子張括は戦争のことで父親と議論をすると,いつも父親をまかしました。父はいつも理屈では息子に負けたけれども,戦というものは理屈ではない,何となく違うところを見るのが戦の妙所である,何となく違うところは筆にも書けないし,いえないものである,そのいえないところを理解しなければ危ない,きっと張括は,理屈はいうけれども本当の戦争ではどうなるのかなといって心配するのです。ところが果たして,張括は50万の大軍を引きつれて秦の軍との戦に出ますが,戦に負けて,50万の兵士が全部本きな穴に埋められて一人残らず死んでしまい,自分は自殺をしたのであります。南溟はこの話を自分の本の中に引用して,学問だけでは何の役にも立たない,これは術であるから,術を磨かなければならないということをいっているのであります。その頃のことですが,京の七不思議の一つに修庵の療治下手というのがありました。修庵とは後藤艮山の門人の香川修庵のことで,儒学と医学は一つであるという説を立てて,『一本堂行余医言』とか,『一本堂薬選』などの名著を著わしておりまして有名でしたから,患者が門に押しかけてきましたが,病気はほとんど治らなかったというので,京の七不思議の一つになったというのであります。これによっても,ただの知識というものは何にもならないのである,患者を治療することは術であるというわけですが,それは今日でも外科の先生が,いくら本で外科の術を知っているからといってうまく手術ができるわけではなく,やはり術ですから体験が必要でしょう。それと同じことで,術から離れてはだめだということです。 そこで東洞の門人の中でもっとも治療のすぐれたのは,和田東郭という人でありましたが,この人が自分の問人に語った書物に『蕉窓雑話』というものがあり,東洞とはまったく別の途を歩いていたことがこの書物によってわかるのであります。東郭は,医の道は忠誠を尽くすのみである,といいました。忠とは自分を欺かないことであり,不忠とは自分を欺くことであるから,術を磨くにも術を施すにも,患者に誠を尽くして,忠をたて抜く以外に何ものもない,ということを繰返してこの書物の中で述べて おります。 術を磨くには,一芸に凝りかたまって習熟すべきであって,心があれこれと多端に向かう時は,術の妙所に至ることはむずかしい,ただ一筋に心を走らせ,これを思い,これを求め,山に遊んでも,たばこ盆一つを手に取っても,すべてのことが自分の心がけ次第で全部自分の術の工夫の手がかりになるものであるから,夜も昼も休まずに工夫,鍛錬をする時は,必ず谿然として悟る時がくる。その時は実に手の舞い,足の踏むところを知らないほどの喜びが訪れるものであるから,ただ一途に術のことをのみ求むべきである。そして槍の名人とか,まりつきの名人の話などの例をあげて説明しているのであります。

このようにしまして,東郭は,有法の法は死法である,無法の法は活法であるという境地に達するのであります。つまり,形や法則にくくられるのは有法の法であって,死んだ法則であり,実際の術の活法は,形や法則にくくられずして無法の法を得るのである,というのであります。たとえば小柴胡湯は,「胸脇苦満,往来寒熱,黙々として飲食を欲せず」と『傷寒論』に書いてあります。そうすると,小柴胡湯はこういう処方だからと,それだけで小柴胡を使ったのでは有法の法であって,その法は死んでしまっているというわけです。大承気湯は腹満,便秘,潮熱というような場合に使うということが『傷寒論』に書いてあります。ところが,そういう場合だけが大承気湯を使う目標であると思って,それを覚え,それに一途に型の通りにやると死んだ法になるから,その区別を知るのが診察であり,その区別は筆にも現わせないし,口でもいえない,ただ何となく違うので,何となく違うところを覚えなければならないと いっております。

それでは,何となく違うところを見覚えるにはどうしたらよいかと申しますと,患者に誠を尽くして,ただ一途に術に凝りかたまって病人を何とかして治してやりたいという一心になるよりほかに方法はないと,東郭は述べております。また東郭は,学問をするということは, 対象物(相手), すなわち医者でいえば,患者と自分とが一つになることである,彼の中に我を見ることであると申しております。すなわち書物を見るにしましても,書物の中に自分が出てこなければならないというのであります。このようにして,東郭の医訓の中に,「古人の病を診するや,彼を見るに彼をもってせず,すなわち彼をもって我となす。それすでに彼我の分なし,これをもってよく病の情に通ずるなり」ということがあります。

 すなわち患者を診るのに,彼をみるのに,我`をみるようにならなければならないということをいっております。また「古人の病を診するや,色を望むに目をもってせず,声を聞くに耳をもってせず,それただ耳目をもってせず,ゆえによく病応を体表に察するなりJといっております。これはどういうことかと申しますと,目で見ないで心で見,耳で聞かないで心で聞くということで、このことは,哲学者の西田幾太郎が『働くものから見るものへ』という本を書きまして,その序文の中で,「幾千年来われわれの先祖のはぐくみきたった東洋文化の根底には,形のないものの形を見,声のないものの声を聞くといったようなものが潜んでいるのではなかろうか。われわれの心はかくのごときものを求めてやまない。私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと思うのである」といったことを書いているのであります。このような心は漢方医学だけではなくて,東洋文化のすべての心でありまして,絵をかく場合においても,彫刻においても書道においても,またわれわれの医術においても共通の態度であります。傷寒論を読むにも,傷寒論が患者に見え,患者が傷寒論に見えるように読めというのが,読書の際の心構えでありまして,患者と医師とが二つになるというのが医術の極致であるわけであります。このように考えますと,漢方はただ学問として知るだけではなくて,一つの術を磨かなければいけない,一つの芸術のようなものであるというようなことになってくるわけであります。それで,この医学では心と体を分けない,心身一如である。心と体が一つであるから,このごろ心身医学という言葉がありますが,漢方では分けないで,このような言葉はいりません。初めから心と体は一つであるから心だけを病むこともなく,体だけを病むこともない,したがって薬は,体だけでなくて心にまで効くような,いわゆる気を動かすものでありますから,そういうことのために,後藤艮山などの一気留滞論などは非常に面白いことでありまして,今後とも漢方をやる場合に,これをただ唯物的に,見えるものだけを見て,見えないものを捨てるということでは,漢方の本当の診断はできないのではないかと思うのであります。

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