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  • 執筆者の写真Nakamura Mineo

傷寒論解説(2)



札幌 漢方 中村薬局 傷寒論 張仲景

小曽戸 洋   日本東洋医学会評議員

「傷寒論」の成立と現存するテキスト

『傷寒論』は今から千八百年近くも前の三世紀の初め、中国の張仲景という人によって書かれたとされる漢方医学の原典です。 漢方は今からおよそ二千年前の漢の時代に、その基礎が確立されました。この漢の時代に、漢方の三大古典といわれる三つの重要な医学書が作られまして、1つが「黄帝内経」という書で、これには医学の基礎理論や、あるいは物理療法、すなわち鍼や灸の治療法が記載されています。もう一つは『神農本草経』と呼ばれる書で、これは三六五種の個々の重要な生薬について書かれた薬物学書です。そしてもう一つが、これからお話しする張仲景の著した医学書で、これは生薬を組み合わせた処方による治療医学書です。  張仲景の書は成立以来今日に至るまで日本でも、中国でも、漢方処方運用の基本的文献としてもっとも重要視されているものです。張仲景の著したこの処方集は、成立当時からしばらくの間『張仲景方』もしくはそれに類似した書名で呼ばれていました。つまり張仲景の著した、あるいは張仲景の集めた処方集という意味です。  しかし、当時の原書は今日そのままの形では伝わってはいませんで、今から千七百年から千八百年前の原書がどのような状態であったかはっきりしたことはわかりません。しかしいろいろな資料から判断しますと、腸チフスのような急性・熱性病の傷寒を扱った部分と、慢性病を中心とした諸々の雑病を扱った雑病の部分の、大きな二つの部分からなっていたようです。そして後の時代に前半の傷寒の部分が『傷寒論』という一つの本として、また雑病の部分は『金匱要略』という書名に変えられてそれぞれ単行本として伝承され、今日に至っているものです。

 さて、著者である張仲景の伝記についても、はっきりしたことはわかっていません。唐の時代に、それまでの歴代の名医の伝記を集めて作られた『名医録』という本に、「張仲景は南陽の出身で、名前は機といい、仲景とはその字、つまり成人になってからの名前である。当時孝廉と呼ばれた官吏登用試験に地元から推薦されて官職につき、昇進して長沙の太守、地方長官に至った。張仲景は初め郷里の南陽の張伯祖に医学を学んだがめきめきと腕をあげ、周囲の人々が先生である張伯祖よりも勝れていると噂をするほどであった」と記されています。張仲景の出身地である南陽は今の中国河南省南陽市のことで、現在も張仲景を祭った大きな医聖祠という祠が建っています。

 また張仲景を記念して作られた「張仲景国医大学」という伝統医学の医学校が開設されています。張仲景が長官を勤めたという長沙の地は現在の湖南省に位置する大都市です。しかし張仲景が長沙の太守という高い地位にあったのなら、中国の歴史を記した『後漢書』とか、あるいは『三国志』といった正史にも張仲景の名前が出てきてもよさそうなのですが、どういうわけか張仲景の名前は正史には出てきません。

 そこで後世、日本の江戸時代の学者の一部からは「張仲景は架空の人物である」というような説まで飛び出してきました。ただ張仲景の時代からそれほど遠く離れていない時期の文献に、すでにいろいろな伝説が出てきます。たとえば張仲景が王仲宣という人に面会して、その数十年後の死を見抜いて五石散という薬剤を服用するように勧めたが聞き入れられず、果たして王仲宣は予告通り数十年後に病死したといわれています。あるいは開腹手術を行って、赤い餅のようなものをおなかに入れて治療したということです。あるいは老猿を丸薬で治療したところ、お礼に素晴らしい木を贈られ、それで極上の琴を作ったなどという伝説も伝わっています。内容は現実離れした話ですが、このような話は中国ではよくあることで、ともかく後漢時代に張仲景という名医が活躍したということは間違いないと思われます。

 さて、現在伝わる『傷寒論』には張仲景自身が書いたという序文が載せられています。この序文については、次回に長谷川先生が解説されることになっていますので詳しいことは省略いたします。そこで張仲景は、自分がこの医学書を編纂するに至った動機について次のように書いています。

 すなわち「自分の一族はもともとたくさんの人数で二百人以上もいたのだが、建安紀年(西暦一九六年)以来十年も経たないうちに三分の二が死んでしまい、しかもその死亡者のうちの七割が傷寒という急性熱性病であった。このことに深くいたみ、『黄帝内経』や『難経』、『陰陽大論』という医学理論書、あるいは『胎矑薬録』という薬物書、さらに脈の書物を参考にして傷寒、雑病に関する論、計十六巻の本を著した」と述べています。西暦一九六年から十年足らずの聞に一族の多くが死亡した、それからこの医学書を編集したということで、およそ西暦二OO年少し過ぎ、すなわち三世紀の初頭の成立と考えられているわけです。次に、張仲景の医学書の伝承についてお話しいたします。漢の王朝は張仲景が医書を書いてから間もない西暦二二O年に滅亡して、『三国志』で有名な動乱の三国時代となります。この時代に張仲景の医書は錯乱を生じて不完全なものになってしまったようです。三国時代の次に晋という国が中国を統一しますが、この時代西暦二八O年ごろ西晋の大医令、すなわち医療担当の最高長官であった王叔和という医学者が張仲景の書を高く評価しまして、不完全になった張仲景の書を再編集しました。それで、今に伝わる『傷寒論』と『金匱要略』には初めに「漢の張仲景述、晋の王叔和の撰次」というふつに書いてあります。

 王叔和という人は、脈の理論と臨床の実際を記した『脈経』という脈学書の著者としても知られています。『脈経』という古典は今日鍼灸医学の分野で重要視されています。このように王叔和によって三世紀末に再校訂された張仲景の医書は、以後唐の時代を経て北宋の時代に至るまで約八百年もの問、何度も何度も手で書き写されて伝えられることになります。

 当時は書物を印刷して出版するということが行われていませんでしたから、写すたびにつまり長年の伝写を経ていろいろなテキストが生じてきます。これは他の古典でも同じことで、『傷寒論』の場合だけに限ったことではありません。三世紀から一O世紀までの中国の書物の目録類には、例えば次のように張仲景の書が出てきます。

 『張仲景撰論』あるいは『張仲景方論三十六巻』、『張仲景弁傷寒弁方九巻』、『張仲景雑方八巻』、『張仲景弁傷寒十巻』、『張仲景方十五巻』、『張仲景傷寒論十八巻』あるいは『張仲景方九巻』、『張仲景薬方十五巻』、『王叔和張仲景薬方十五巻』とか『傷寒卒病論十巻』といったふうに、書名も巻数もまちまちで一定していません。こうしてみますと、張仲景の書のうち傷寒の部だけが単行本として扱われるようになったのは、五世紀以後のことと推定されます。

 しかし傷寒と雑病の部が一緒になった旧来通りのテキストももちろんあったわけでして、これらの資料を検討しましてともかく大変複雑な経緯で、現在伝わる『傷寒論』ないしは『金匱要略』は、伝られたということがうかがえます。

 このようにいろいろなテキストが派生したということは、言い換えると張仲景の医書が高く評価されて伝えられたということを意味しています。実際に中国では、唐代以前にもおびただしい数の医学書が著されていますが、今日伝わっている書はごくほんの一部にすぎません。

 唐代に『傷寒論』が高く評価されていた証拠の一つに、当時唐代の医師の国家試験に『傷寒論』が教科書として課せられていたという事実があります。これは西暦七三七年に制定された「開元二十五年令」という唐の法律に定められています。この時の『傷寒論』は残っていませんが、王燾という人が西暦七五二年に著した『外台秘要方』という医学書にかなりの部分が引用されていまして、当時の状況を知る上で貴重な資料となっています。『外台秘要方』に引用される『傷寒論』には一部現在の『金匱要略』の内容も含まれています。

 さて、唐が西暦九O七年に滅んでから五十年ほど五代という戦乱の時代が続きまして、九六O年に宋王朝が中国を再ぴ統一します。これを北宋の時代といっています。この北宋時代に中国において印刷技術が飛躍的な発展を遂げまして、数多くの書物が印刷、出版され、それまで写本であった書物が印刷物として広く世の中に出回るようになります。

 医学書はもちろん実用書ですからとくに需要も多く、かつ宋の政府は医療政策に力を注ぎましたので、古典医学書の校訂作業、印刷出版が国家的な事業として大規模に行われるようになりました。

 とくに西暦一O六五年から一O六九年の五年間には最も大掛かりに行われまして、約一O種の基本的医学典籍が精密な校勘のもとに編集され、初めて印刷出版されました。その筆頭が『傷寒論』で、今日私たちが目にする『傷寒論』のテキストはこれに由来する、すなわちこれを出発点としています。このように中国で初めて『傷寒論』が出版物となったのは西暦一O六五年のことで、実に『傷寒論』が著されてから八百年余を経過しています。この北宋時代に刊行された『傷寒論』を一般に『宋版傷寒論』といっています。しかし、『傷寒論』が初めて出版された一O六五年から今日までさらに九百年余りが経過していまして、この北宋時代に出版された『傷寒論』の実物は伝わっていません。ともかく北宋における『傷寒論』の出版は、当時の医学界に大きな反響を巻き起こして『傷寒論』に対する研究が盛んに行われ、北宋から次の南宋、それから金・元時代にかけてたくさんの『傷寒論』の研究書、注解書が著されるようになります。ここでは細かいことは省きますが、中でも最も評価が高く、一般に親しみ読まれたものに、金の成無己という人が西暦一一四0年代に著した『注解傷寒論』という書があります。文字どおり『傷寒論』を注解したものでありまして、あるいは『成無己本傷寒論』などともいっています。成無己はもちろん『宋版傷寒論』を基として、それに自分の注をつけ加えたのですが、本文を多少変えたり、省略したり、宋代の注を削ったりしています。ですから本文は基本的には大体同じですが、細かい点では『宋版傷寒論』と『成無己本傷寒論』では違ってきています。

 この成無己の注釈本が世に出てから以降、あまりに人気を博したため、従来の『宋版傷寒論』はすっかり影を潜めてしまう結果となりまして、金・元時代の次の西暦一三六八年から始まる明の時代には『宋版傷寒論』は世の中から埋没してしまいました。

 ところが明の時代、古典の復刻ブ-ムがやってきまして、西暦一五九九年、趙開美という人がようやく宋の時代に出版された『宋版傷寒論』を見つけ出しまして復刻しています。これが現存する最古の『宋版傷寒論』です。ですから『宋版傷寒論』とはいいましでも、実際には、宋の時代に出版された『傷寒論』 のそのまたリプリントということで、『成無己注解本』に対してこう称しているわけです。

 一五九九年に明の趙開美がリプリントした『宋版傷寒論』も、今日では二点しか現存していません。中国では従来この書の存在が知られていませんでしたが、最近民聞から、北京の中医研究院図書館に一本が入ったようです。

 日本では、江戸時代に明から輸入されまして、江戸幕府の図書館である紅葉山文庫に納入されたものが、今日国立公文書館内閣文庫に伝えられて現存しています。

 日本に『傷寒論』が伝わったのは、鎌倉時代であります。鎌倉時代には宋の時代に出版された『宋版傷寒論』と、元の時代に出版された成無己の「注解傷寒論』とがあり、両方とも中国から伝えられました。

 最初に入った正確な年はわかりませんが、『宋版傷寒論』は少なくとも西暦一三一五年以前に、『注解傷寒論』は西暦一二八四年以前に輸入されていたことが確実にわかっています。

 しかし残念なことに、鎌倉時代に輸入された『宋版傷寒論』は現在伝わっていません。日本における医学書の出版は中国に遅れること五百年後でありまして、室町時代の一五二八年に日本で初めて中国の医学書が出版されました。

 しかし室町時代には三種の医学書しか出版されませんでした。日本において医学書が盛んに出版されるようになるのは慶長元年(一五九六年)以降のことでありまして、それは豊臣秀吉が朝鮮に出兵し、引き上げる際に、当時の朝鮮の優れた活字印刷技術を導入したのがきっかけです。この技術で印刷された書を古活字版で行われました。出版年ははっきりしませんが一六00年代の初めのことです。日本初の印刷本『傷寒論』は成無己の注解本によるものでした。今日その実物の現存が一点のみ確認されています。

 さらに一六六O年頃、成無己本から成無己注を除いて本文だけを残した『傷寒論』が、やまはり古活字版で出版されています。これら古活字版の『傷寒論』は後世方派と称せられる曲直瀬一門の人々が出版したもので、『傷寒論』一辺倒に傾いた古方派が出現する以前のことです。日本では一六五九年に張仲景関係の書を集めた『仲景全書』という叢書が刊行されています。その中の『傷寒論』は、明の張卿子という人が従来の『傷寒論』研究者の注を集めた『集注傷寒論』というテキストが用いられています。

 一六六八年には日本で初めて『宋版傷寒論』がリプリントされました。これは趙開美本によったものですが、誤字がしばしばあるのであまりよいテキストとはいえません。

 しかし『宋版傷寒論』の普及という面では大きな役割を果たしました。以上の『仲景全書』や、一六六八年版の『宋版傷寒論』もまた曲直瀬一門の刊行になるものです。

 一七一五年には古方派の巨頭の一人として有名な香川修庵という人が、成無己本から成無己注を削り取り、『傷寒論』本文のみを残した小型のハンドブックを作りました。『袖珍本傷寒論』あるいは『小刻傷寒論』といっています。

 これはあまりよいテキストとはいえませんが、大変簡便で手ごろであったため、以後何度もリプリントされ、江戸時代後期の医学書中最大級のベストセラーとなりました。

 香川修庵の『小刻傷寒論』は『傷寒論』の普及という点では非常に大きな貢献をしたといえます。その後日本では一七九七年、一八二七年、一八四四年にそれぞれ「宋版傷寒論』が出版されています。また一八三五年に『注解傷寒論』の復刻本ないしは校訂本が出ていますが、時間の関係上詳しいことは省略します。

江戸時代における『傷寒論』の最も優れたテキストは江戸時代の末期、幕末の一八五六年に考証学派として知られた多紀家一門が、幕府の紅葉山文庫から『趙開美本宋版傷寒論』の原本を借り出しまして、それに厳密な返り点をつけて忠実にリプリントしているものです。  これは多紀家門下の堀川舟庵という人が出版しましたので、一般に『堀川本』といっています。 従来中国では趙開美本の原本の存在が知られていませんでしたので、中華民国時代、中国では日本の『堀川本』を逆輸入して返り点を抹消して『趙開美本』と偽って出版したほど、これは立派な出来栄えをしています。 この『堀川本』は従来入手不可能でしたが、このたびリプリントされて簡単に手に入るようになりました。返り点もついていますので、『傷寒論』 のテキストとしては最善のものです。また国立公文書館内閣文庫に現存する唯一の趙開美の原本も近年リプリントされ、入手は容易となっています。『傷寒論』の原本により近いものが容易に入手できるという点で、日本はむしろ中国よりも恵まれていると思います。

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