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  • 執筆者の写真Nakamura Mineo

傷寒論解説(1)



山田光胤 日本漢方医学研究所理事

「傷寒論』の概観について

本日から、この漢方医学講座で『傷寒論』の解説をいたします。今日はその初めですので、『傷寒論』という医書がどういうものであるかということを、『傷寒論』の概観としてお話しをしようと思います。 『傷寒論』という書物は、もとは『傷寒雑病論』といわれました。そして中国の宋の時代に、『傷寒論』と『金匱要略』という2つの書物に分けて校訂、再編成されたものです。現存する『傷寒論』の序文の冒頭に『傷寒卒病論集』と書いてあります。『傷寒雑病論』と『傷寒卒病論集』とが同じものなのか違うものなのか、これは一つの謎でありますが、今となってはその真相を知ることはできません。 『傷寒論』とは、傷寒についてその症状、経過、治療ならびに、誤治(誤った治療)をした場合の変化と、それに対応する治療などが事細かに論じられている書物です。その傷寒という病は、発熱を伴う急性疾患の総称で、熱の出る病気です。そしてそれをさらにその中に狭義の傷寒と中風という病気の区別があります。

狭義の傷寒

さて、細かに分けますとは、呼吸器の深部や消化器に炎症性の病変が及びやすい悪性の急性症で、典型的な病気は、かつての腸チフスだとか、その類症と思われる伝染性疾患でした。しかし現今では、悪性のインフルエンザなどもこの範晴に入るかもしれません。一方、中風というのは、後世中風(チュウブ)という病気が出ましたが、そのチュウブではありません。チュウブは脳の循環障害による麻療を起こす病気ですが、『傷寒論』の中風はそうではなくて、良性で軽症の急性症、例をあげますとかぜ症候群だとか上気道炎などがこれにあたるということが、この書物を読むと理解されます。

 この『傷寒論』はできあがってから長い年月を経ましたので、その聞に散逸したり、再現して再編集されたり、またいろいろ加筆をされたりということを繰り返してきところでたようです。というのは中国は有史以来続いている戦乱の影響が大きく、文化遺産の多くことに、『傷寒論』もまた同じ運命であったと思われます。しかし幸いに『傷寒論』は二回大きな再編集が行われ、現代に伝えられたのです。『傷寒雑病論』が戦火で焼かれましたが、は初め、後漢の末期に(紀元二五年から二二O年までが後漢ですが)、長沙の太守であったとされている張機、字は仲景といわれる人によって撰述されました。しかし、張機とまたの名仲景とは同一人物であったという確証はありませんが、張仲景という当代の名医がいたことはわかっています。

 その張機の序文によりますと、建安元年(紀元一九六年)以来十年とたたない聞に、張仲景の一族の者が多数傷寒で死去したとあります。ということは、おそらく伝染性疾患であったということが考えられるわけですが、そのことによって張仲景は発奮してこの書物を著したと書いてありますので、そのことから『傷寒論』の著作された年代が大体推定できるわけです。ところが西晋の時代(二六五~三二六年)に、その国の大医令、すなわち医者の一番上の役人でしょう、今でいえば厚生大臣に相当する王叔和が、あらためてこの書物を校訂したのです。ということは張機(仲景)が撰述した『傷寒雑病』百年余りの間に、はやくも散逸の危機にあったということがわかるわけです。王叔和が校訂した『傷寒雑病論』は、しかし今に伝えられていません。現在は、先に述べた『傷寒論』と『金匱要略』と『金匱玉函経』という三種の書物が残っているのですが、『傷寒論』と『金匱要略』の二書は、いずれも宋の時代に英宗という天子の勅命によって、儒官の林億らが官府に所蔵されていた蔵書等について校訂したものです。『金匱玉函経』また別の書物で、これは一種の『傷寒論』の異本です。『傷寒雑病論』の旧態、最初の姿はやはり伝えられておりません。『金匱要略』という書物は、やはり林億らが校訂して再編集した雑病について記載された書物です。『金匱要略』は正式な書名を『金匱玉函要略』といいます。

 雑病とは熱の出ない一般慢性病のことです。これらの書物は宋の時代に再度校訂された書物、『傷寒論』に対して『宋版傷寒論』と呼ばれています。しかしこの宋代に校訂された『傷案論』の原本はやはり今はもうなくなっており、現存している書物、テキストは明の時代に趙開美という人が翻刻した版本と、金の時代に成無己という人が注釈を加えた『註解傷寒論』という2書であります。

 この他に特殊なテキストとして昭和時代になってから我が国で発見されました「康平傷寒論」があります。これは平安時代にすでにわが国に伝えられたといわれているものです。そこで、このような経過を経る聞に、『傷寒論』はもともとの文章であった本文と、後の世の人たちが何らかの目的で書き加えた追文とが混然と入り混じってしまいました。追加の文章には、後世の人の追論だとか注釈があります。そのために元来の文章の意味がわかりにくくなっている箇所がはなはだ多くなっています。

 江戸時代には日本で多くの医者が『傷寒論』の研究をしました。その中で最も多い研究は、本文と追加の文とを区別して本来の意味を探ろうとしたもので、それは本文にこそ真摯実験に値する、実用性があると思われたからに違いありません。この『漢方医学講座』 で以前、『康平傷寒論』の解説を行ったことがあります。『康平傷寒論』略して『康平本』といいますが、この『傷寒論』は今も申しましたように特殊なテキストであり、その来歴については省略しますが、その内容は本文と思われる条文を一五字詰めで書いてあり、非常にわかりやすくなっています。そして後の世の人が付け加えたと思われる追論の条文は二二字詰めで書かれて区別されています。また一四字詰めの条文もあり、これは本文であるのか追論であるのかは判然としないのですが、たとえ追論であったとしても実際的で重要だと思われるものです。また注釈であるということがはっきりわかっている文章が嵌注と傍注になって小さい字で加筆されています。嵌注とは本文の聞に書き込んである注釈文です。また、傍注とは本文の脇に書き加えてある注釈文です。『康平本』がもし江戸時代、世の中に出現していたならば、当時の学者は『傷寒論』の研究がもっと楽だったのではないかと私は考えています。幕末から明治の初期まで活躍した浅田宗伯翁が『傷寒論識』という『傷寒論』の解説書を著作されていますが、その中で非常に苦労して解説している条文がしばしばあります。ですが宗伯翁がもし『康平本』をみていたならば、それほど苦労しなかったのではないかと考えられるところもあるのです。それにしても『傷寒論』の条文中で明らかに文体の違う繁雑な部分がありますが、それらは明らかに後の人が追加したところです。それに反して、もともとの本文と思われる条文は簡潔明快で、私は歯切れがよい文章だといつもいっています。

 今回は江戸時代以降わが国で広く読まれた傷寒論のテキストである『宋版傷寒論』を読むことにしました。使用するテキストは江戸時代に多種類の宋版系の書物が出版されましたが、その中でも最も原本に近い善本とされている明の趙開美の刊本を使うことにしました。この書物は10巻に分かれています。その内容を一応読んでみますと、まず序文が出てきます。次に第一巻には弁脈法と平脈法が出ています。これは脈についての解説の部分です。第二巻には傷寒例と痙、温、暍の病気が書かれ、そして太陽病の上篇が述べられています。痙、湿、暍という病気は、傷寒に似ているけれども似て非なる病気として、特別にここに解説されているのですが、太陽病以後いよいよ傷寒という病気の本体に入ります。

 『傷寒論』では傷寒という病気を、そここであらかじめ簡単にお話しをしておきますが、この病気の時期ならびに病症(病気の状態)により、六つの病期に分けてあります。その六つの病期がさらに二つのグループに分類されています。初めに出てくるのが、三つの陽病という病期です。その次に出てくるのが、三一つの陰病という病期です。そして三つの陽病の最初にあげられたものが、この太陽病です。次の第三巻には、太陽病の中篇が書かれています。第四巻には太陽病の下篇が書かれており、第五巻には陽明病と少陽病が書かれています。この太陽病、陽明病、少陽病という三つの病期の名前は、元来「素問」という中国の古医書がありますが、その『素問』に記載されている経絡(鍼刺激の通路)の名前をここに応用したといいますか、仮託して述べられています。

 次に第六巻ですが、陰病という三つの病期です。太陽病から始まって厥陰病に至る六つの病期は、 この巻には三つの陰病が出てきます。その陰病は太陰病、少陰病、厥陰病という3つの病期です。 それぞれ独立した病気というのではなく、病という名前はつけられていますが、これは病態であり ます。傷寒という熱の出る病気が、起こり初めから終わりまで、場合によっては死に至るまで、病状が変化していく過程に従ってこういう病名をつけて区別され、そしてそれに対する対応が述べられているのが『傷寒論』の本文です。

 そして第七巻には霍乱病が出てきます。霍乱病というのは熱射病のような病気も入りますが、急性の腹痛、下痢を伴う病気の名称です。これも傷寒に似ているため、『傷寒論』で述べられているわけです。

 そして、それと同時に陰陽易差病という病名が出てきますがこれは熱の出る病気が治らないうち に早く一一房事をしたため、元に戻ってしまうという病気です。  そこまでが一般の『傷寒論』で述べられている病気の症状、経過、治療に関する部分です。 これ以後第巻に至るまでこの本文をさらにもう一度まとめて、病気の治療をする場合に気をつけなければならない注意書きのような記述があります。第七巻の後半には発汗してはいけない病気、発汗すべき病気、第八巻には発汗後の病気、吐してはいけない場合と吐す場合、第九巻に下してはいけない病気、下すべき病気、第一O巻に発汗吐下後の病気という記述があります。

 これによりまして『傷寒論』の治療法がわかるわけですが、『傷寒論』の治療法としては、発汗と吐(嘔吐をさせる方法)、それから下といって瀉下を行う治療法とその三つの方法が基本になるということがこれでわかるわけです。  ついでながら申しますと、発汗させる病気は「太陽病」の場合であり、熱が出た初期には発汗を行ってそれによって解熱をさせるという治療法を行うわけです。吐というのは胃のあたりにものが詰まってかつ冷えてきた時に、それを吐出させ胸を広げて楽にさせて病気を治すという治療法です。下というのは瀉下をする場合で、腹の中に病気が溜まった時、いってみれば大腸、小腸に炎症が及んで、そこに大便が停滞して一種の病態を呈している時に瀉下を行って、それによって熱を下げるという方法をとるわけで、この三つが『傷寒論』の治療法の基本になります。

 さて本書の内容を見てみます。巻頭に出ているのが序文です。その序文は前段と後段に分かれています。前段は医師の基本的心構えのようなことが述べられていて、その後で張仲景が『傷寒論』を著作するに至った動機と経過が述べられています。ここのところで、先ほど話しましたような『傷寒論』の成立した年代が推定できるわけです。後段は文体ががらっと変わって、医師の技術上の心構えのようなことを主眼として論じています。この後半の部分は王叔和の追論ではないかともいわれているところです。

 さて、先ほど第一巻に弁脈法、平脈法というのがあると申しましたが、この部分は文体、文章の体裁が問答体になっており、『傷寒論』の本文ではないことがよくわかります。中国の最も古い医書である『黄帝内経』の一部が『素問』という書物になり、あとの部分が『霊枢』という書物になったのですが、その中の文章と文体が同じであるということがわかります。

 話しが飛びますが、三陽病というのは太陽、陽明、少陽という三つの病期で、これは熱の出る場合です。三陰病という病期はそれに対して熱が出ないで寒けばかりする病気です。この陽病であるか陰病であるかという区別は、病気を治療する上で非常に大事なところで、熱の出ている時はたとえ寒けが伴っていても熱感が起こる、しかし熱感がなくて寒けばかりの時は陰病であり、陰病の場合は附子の入った薬を使って体を温めて体力を補わなければいけないということになります。

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